小説 痕・初音編


 夢・・・。夢を見ている。夢の中では、わたしはまだ子供で、お兄ちゃんが欲しいと言って、お父さんとお母さんを困らせていた。七夕の夜、ささの葉にこっそりと、わたしは「お兄ちゃんが欲しいです」と書いた短冊をぶらさげた。
 そして、その年の夏休み、わたしにお兄ちゃんができた。正確には、わたしのいとこに当たる人が遊びに来ただけなんだけど。でも、子供だったわたしは七夕さまが叶えてくれたのだと思って、そのお兄ちゃんのあとを、いつもついていって、小犬のように甘えた。そんな、懐かしい夢だった。
 ちょっぴり、意地悪なところもあったけど、優しくて大好きなお兄ちゃん。もうすぐ、また、会えるんだよね?


 朝。朝が来るのがとても待ち遠しい。朝が来るたびに、耕一お兄ちゃんが来る日に近づいて行くから。でも、朝が待ち遠しいのはわたしだけじゃない。お姉ちゃん達も最近は、そわそわして落ち着きがない。梓お姉ちゃんは、ムキになって否定していたけど…。
 「おはよう、初音」
 「おはよ、楓お姉ちゃん」
 居間には、楓お姉ちゃんがいる。朝が待ち遠しいと、つい早起きになってしまう。みんなも、だんだん早起きになっている。このままだと、お日様が昇る前に家族そろって起き出しちゃいそうだ。
 座布団に腰を下ろしたわたしは、テーブルに妙な物があるのに気がついた。
 ストップ・ウォッチだ。多分、陸上部にはいっている梓お姉ちゃんのだ。何で、こんな所においてあるんだろう?
 梓お姉ちゃんは整理整頓をしっかりやるので、物を出しっぱなしにするのは滅多にない。よほどの事が、ない限りは………。
 「あー、もう!千鶴姉はいいから!雑巾を持って来て!!」
 いきなり、台所から怒鳴り声が聞こえた。
 「何かあったの?」
 「千鶴姉さんが、料理を作ったみたい」
 楓お姉ちゃんが、苦笑気味に答える。そう言えば甘酸っぱいような、焦げ臭いような、それでいてピリピリと痺れる匂いがする。
 「人が多いと、かえって大変だから、まず梓姉さんが簡単に片づけるそうよ」
 「……そんなに、ひどいの?」
 「鍋ごとひっくり返したみたいね」
 台所からは、相変わらず、梓姉さんの声が聞こえてくる。
 「せっかくだから、耕一さんを手料理でもてなそうと思って、練習を……」
 そんな千鶴お姉ちゃんの声も聞こえた。
 「手料理かぁー。わたしも梓お姉ちゃんみたいに、お料理が上手ければ、耕一お兄ちゃんにご飯を作ってあげられるのになぁー。ね、お姉ちゃん」
 「……うん」
 楓お姉ちゃんの返事は、心持ち暗かった。
 この時わたしは、楓お姉ちゃんがつらく、哀しい決意をしていた事を、知らなかった。


 「初音、晩御飯だよ」
 梓お姉ちゃんに呼ばれて、わたしは部屋を出た。
 お茶の間に行く途中、耕一お兄ちゃんが泊まる予定の部屋の前を通る。
 「お姉ちゃん、今日も耕一お兄ちゃんの部屋の掃除したの?」
 「えっ。ま、まあ、一応あんな奴でも、お客様だし、部屋ぐらい掃除しとかないとね…」
 そんな事を言っているけど、梓お姉ちゃんは、毎日耕一お兄ちゃんの部屋の掃除をしている。照れ隠しで、何かと文句を言っているけど、梓お姉ちゃんが、いちばん耕一お兄ちゃんと仲がいい。
 梓お姉ちゃんも、耕一お兄ちゃんの事が大好きなんだよね。
 「何、初音、ニコニコしちゃって。何かおかしい?」
 「何でもないよ。でもね…」
 「でも?」
 「あのね、梓お姉ちゃん、きっといいお嫁さんになれるよ」
 「なっ、なによ、それ。からかわないでよ、もう」

 テーブルには、先に千鶴お姉ちゃんと、楓お姉ちゃんが、座っていた。
 席についたわたしは、ストップウォッチが、また置いてある事に気がついた。
 わたしは家族の中でも一番早く家を出るので、あの後、台所をどう片づけたのか知らない。そう言えば、帰ってきてからも台所を見ていないような気がする。
 台所はどうなっているのだろう?
 誰も、このストップウォッチを片づける暇も無いぐらい、大変な状態だったのだろうか?
 千鶴お姉ちゃんは、のんきに美容院で髪をカットしてもらうと言っている。梓お姉ちゃんは、「耕一お兄ちゃんが来るから、おしゃれする気?」と言って、千鶴お姉ちゃんをからかっている。楓お姉ちゃんは、もくもくとご飯を食べている。
 みんな不自然なまでに朝の話をしない。
 あの後に、なにが、あったのだろう?
 何か、わたしに言えない事が…。
 「初音、聞いている?」梓お姉ちゃんの声に、わたしは現実に引き戻された。
 「えっ?なに?」
 「だから、耕一が来たら、みんなであいつを励ましてやろうって、事だよ」
 「耕一お兄ちゃんを?」
 「耕一さんは私たちと違って、独り暮らしだから、つらい事を独りで抱えていると思うの。だから、こっちにいる間はせめて、私たちが耕一さんのことを優しく迎えたいの」
 「……うん。そうだね」
 今こうしている間も、耕一お兄ちゃんは、独りぼっちなんだ。ううん、今に始まったことじゃない。耕一お兄ちゃんのお母さんが死んで、それから、ずっと、独りぼっちなんだ。
 わたし達が、おじちゃんを、とっちゃったから……。
 「だからって、千鶴姉は料理で、もてなさなくてもいいんだからね」
 「ちょっと、梓、その事はもう言わない約束でしょ」
 「あはは、聞いてよ初音。千鶴姉ってばねー」
 「あー、駄目!初音には言わないで!!」
 お姉ちゃん達は、仲良くけんかしている。耕一お兄ちゃんの前でも、こんな風にけんかしなければいいけど。

 ピッ。
 すぐ側で、電子音がした。
 楓お姉ちゃんは、いつの間にかご飯を食べ終わっていた。手に例のストップウォッチを持っている。
 「あっ、新記録」
 楓お姉ちゃんは、小さくそう言った。

 後になって聞いた事だけど、楓お姉ちゃんは耕一お兄ちゃんの近くにいると、悪い影響を与える可能性があったと言う。だから、なるべく一緒の食卓にいる時間を減らすために、早く食べる特訓をしていたそうだ。



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