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北方謙三 三国志(1)〜(13) 2002年6月17日(月)


 この小説の凄い所は、ほぼ完璧な一人称三国志であると言う点だ。
 三国志は歴史小説だ。1800年くらい前の中国の話なので、色々説明をしなくてはならない。1尺が後漢時代では23cmだったとか、官位がどうとか、常山とは現在の河北省正定県にあたり…、などと説明が入る。時には親切に作者曰く、と作者が正史についての見解を書いてくれたり、中国取材で得た情報を書いたり、当時の風習などを書いたりする。
 それが普通の歴史小説で、そう言う部分を読んで読者は歴史と言うものを見つけてしまう。
 だが、北方・三国志にはそれが無い。無い訳では無いが、ほとんど無い。あってもその部分は()で括られていて、明かに話の本筋から除外されている。
 普通なら、何処かで説明を入れないと話が分からなくなるのだが、北方謙三の上手いところはその説明を必要に応じて登場人物に語らせ見事に補っているのだ。
 だから読者は劉備の視点で物を見て、曹操の視点で物を考え、諸葛亮の視点で共に悩む。
 話が多角的に進むので視点が様々な人物に移るのだが、その数も多すぎず少なすぎずバランスが良い。
 視点が変わるので読者は、物事を多角的に見ることができる。例えば曹操がやり残したことがあると思いながら舞台を去ると、次に周瑜の視点となリ、自分であればこう言う事をすると考え、それが曹操のやり残した事なのだと読者にわかるようになっている。

 特に秀逸なのが袁紹の思考だ。
 袁紹は名門のボンボンなのだが、その名門意識と自己中心的なワガママぶりな思考が実に袁紹らしい。作中の袁紹は決して頭の悪い人では無いのだが、その頭の良さが全部自己弁護に向かっていて、他人の欠点ばかりを上げて自分の欠点は見ないようにしている。
 他の三国志であれば、○×書によると袁紹は〜〜と評されていて…、と解説が入って話の腰を折るのだが、北方・三国志では袁紹の思考を見せることによって、名門意識の強い自己中男だと読者に思わせる。読者は説明されるのではなく、自分で感じて判断するので話への共感度がグッと上がる訳だ。
 この辺の描写を指して「だからトップの人間たる者は…」などと言えちゃう人は、「バキ」を読んでもビジネスマン必読の書と言えちゃうんでしょうね。いっそうの事「範馬勇次郎に学ぶ企業経営の秘訣」とか書いて貰いたい。ちゃんと買うから。

 長々と文章のテクニックについて書いたが、一番のキモはそこでは無く、人物描写にある。
 結局のところ、北方・三国志は漢(おとこ)たちが不器用に自分の生き様を貫こうとする話だ。(一部、女性も貫いていますが)
 その生き様は天下統一であったり、敗れざる事と言う誇りであったり、王朝の復刻であったり、仕えた主の夢を継ぐものであったりするのだが、その姿が熱く切ない。
 そして、この人物描写が北方・三国志に置ける最大の原作ブレークになっている。
 基本的に力ばっかりで頭が足りなさそうな豪傑はだいたい好漢として描かれているし、歴史的大ポカ野郎や業務怠慢者もそれぞれの信念に準じた漢として好意的に描かれている。
 この辺のギャップを楽しむためにもできれば、別の三国志を読んでから読むとなお良いです(読み易さなどを考慮すると横山光輝の漫画「三国志」がベスト)。
 ただ、原作ブレークな作品なので、この作品しか読まずに他の三国志ファンと話をすると、大阪で納豆ともんじゃ焼きを食べながら標準語でしゃべっているような視線で見られるので注意しましょう。

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